ならばそれを物語と呼ぼう 1

 まったくもって日常とは面白いものであって、それは常にそこはかとなく面白く、気がつくとさりげなく面白いものである。少し町へ足を踏み出せばいろんなものが転がっているし、人と話せば3人にひとりは面白い人生送っているし面白い話を披露してくれる。
 面白いというものは感情であり、思考でもあるように思える。感情は刺激を受け生まれ思考は物事を考えることにより生まれる。
 刺激を受け、考えていれば日常は面白い。
 


 しかし、日常が面白い感覚というのは意識しないと実感しにくいものである。むしろ意識にあがらないと面白いとはいえないので基本的につまらない。
 では、意識をしてみよう。面白みがあると信じ、探しながら日常を送ろう。いままでは、ただ過ぎ去っていくだけだった断片的で猥雑で一見何も方向性を持たないもの、特に意味を見出せないものたちに意味を見出しさらに広げてみよう。
 そう俺が思った理由を説明するには約2ヶ月ほど前の話をせねばなるまい。



 俺は友人と焼肉を食い。その後、酒を飲み、カラオケに行き夜を明かし、そして、マクドナルドで雑談をしていた。その時の友人の何気ない一言が俺に衝撃を与えたのだ。
 「絵を描く人っていうのは必ずどこかしら歪んでいる」
 
 その友人いわく本来、大多数が所持していない自己表現手段、コミュニケーション手段を持っている人は、絶対どこかしらゆがみが出てくる。絵じゃないと伝えられないものがあり、大多数の人は絵が描けないのでそれを外に出すことはない。しかし、絵が描ける人はそれを表現し相手に伝えることができる。その時点で必ず差異が出てくるのだと言う。
 俺がこの言葉に衝撃を受けた理由を説明するには中学時代の話をせねばなるまい。
 

 
 黒歴史製造システムとして高名な卒業文集というものがある。俺ももちろん書いた。今でも何をつづったのか覚えている。むしろタイトルまで覚えている。「僕が旅に出る理由」何かいろんな意味で救いようがないが2,3週してある意味ものすごく救いがあるようにも思えてくる。
 内容はタイトルのまんま、俺は高校在学中か卒業後、海外に旅に出ることを決めているのだがその理由を説明しよう。というコンセプトだった。
 
 『地球というものには数多の国家があり、さまざまな言語、多種多様な文化を持ち暮らしている。地球に住んでおきながら、人類として生まれておきながら日本でしか暮らさず、日本語しか話さず、日本の文化の中でしか生きないのは異常である。だから、当然のごとく俺は10代のうちに日本を一度去るつもりだ。』というようなことを書きなぐったことをはっきりと覚えている。
 まぶしすぎる未来への希望と、まだ見ぬ世界への熱い眼差し、そして、それらを自分が享受することに何も疑いを持っていない完璧に不完全で透明な15歳の姿がそこにはある。
 要するに非日常を求めていたのだとおもう。さらに言うと、いま、自分が存在している世界とは違う場所がどこかにあるのなら絶対そこに行ってやる。そういうことなんだと振りかえって思う。
 

 中学のときに俺が影響を受けた漫画は「モンスター」「多重人格探偵サイコ」「サラリーマン金太郎
  モンスターで海外での旅暮らしに憧れ、多重人格探偵サイコで人間の深層心理とアンダーグラウンド文化に憧れ、サラリーマン金太郎で自分の知らない巨大な日本の政治、経済の裏側に憧れた。
 中学時代はとにかく現在の環境が苦痛だった。クラスメイトは愚か者にしか見えなかったし、教師も自分よりも頭がいいとは微塵も思えない。こんな糞馬鹿野郎共の掃き溜めとはさっさとおさらばしなくちゃならんとか思っているお馬鹿さんだった。どんくらいお馬鹿かというとそれでいい学校に行ってエリートになってもっと俺は高みへ行くんだと勉強をしたがそれほどいい高校にはいけず、エリートになりたい理由がサラリーマン金太郎の影響というよくわからないもので、さらに、いま思い返して気がついたのだが高校時代の金太郎は暴走族をやってて別にいい高校には行ってない。
 思えば中学校の何がそこまで嫌だったのか思い出せないくらいなのだがあの時から非日常を求め続けていたのは確かである。


 その後、見事に3ヶ月で高校を辞め。精神的な病にかかることになる。しかし、それは薬で治りました。
 中退後はとにかく時間だけはあったので、アニメビデオをレンタルし、小説を読み、漫画を読み、ひたすら物語を摂取していた。友達と遊んでいてもいらだつことのほうが多かったので、ひたすら一人で過ごした。物語につぎ込むお金がないときは散歩をしたり、アニメや小説について考えたりした。
 いつのまにかオタクになっていた。

 といっても当時の俺は萌とかがだいっ嫌いで、エロゲーで泣いたとか言っている人たちは頭が悪く終わっている人種だと思っていた。あくまで俺が求めているのは非日常であり、恋愛を疑似体験したいのではない。そのような主張をよくしていたように思える。
 萌がだめならサブカルアンダーグラウンドに行くしかない!
 そんなわけで僕はいつの間にかオカルトや民俗学、SFが好きになり気がついたらムーを買っていた。ムーを買っていた!

 物語に出てくるような非日常が次第に日常へと侵食してゆく感覚。ようするに僕はリアリティーのあるビジョンが見たかった。オカルトが好きなのはこの世ならざるものがいる世界を宗教的、民俗学的な世界観と体系で、理屈を証明してくれるから。SFが好きだったのは、とんでもなくスケールの大きい話を、未来の圧倒的に進化し、変わり果てた未来を、仮想科学が可能性を、空想の域は出ないにしても証明してくれるから。


 届く可能性のある非日常。それこそが俺の求めるものであった。 続く