ならばそれを物語と呼ぼう 2

 日常の変容。異世界への到達。
 上遠野浩平によるブギーポップシリーズは俺に大きな衝撃を与えた。

 彼が物語を通して描いたもの。彼の提示するひとつの世界観は俺の原風景となっている。

 打ち捨てられ忘れられた開発区。静かな静寂と闇に包まれ置き去りにされた地下街。
 歴史を刻むことなく、時代に取り残された寂しい廃墟。
 
 中心の存在しない大きな流れ。その余波により起こった事件に巻き込まれ、状況を何一つ理解しないまま命を落とす登場人物たち。勝手に真実を解釈し納得し、自分自身でけりをつける主人公。最後まで本当のことはわからないまま終わる物語。
 
 それは俺にとって心地よい救いだった。
 俺の中にある漠然とした感覚。俺が触れていたのにまったく気がついていなかったことを物語にして描いてくれた。
 熱狂した。これは俺のための物語だ。

 目の前に現れたもう一つの日常。それは俺の日常と隣り合わせにあり確かな存在感を持っていた。
 これだ!そう確信した俺は以後ライトのベルを読み漁ることになる。



 しかし、俺が二度目の高校を中退し、古本屋のバイトに明け暮れ、ひたすら物語に埋没しているその間に、友人たちは大学に進学し、やがて就職活動を行うようになっていた。目の前に現れた巨大な社会とその中での自分の居場所の模索。嫌が応にもその流れに巻き込まれていく。
 そして、俺の内面でもひとつの変化が起こっていた。同じ物語を好むバイト先の先輩、いつしか物語を卒業する友人たちを見ている間にひとつの答えにたどり着いたのだ。
 物語というものは結局、人間と社会を描いているものであるという当たり前の理。そして、浮かび上がる自分への問いかけ
 「俺はもしかして社会に人並み以上に興味があり、人間という生き物も割りと好きなのではないだろうか?」
 そこで俺が起こした行動は人間と出会い、話しコミュニケーションをすること。社会について自分なりに考えてみること。
 
 家から徒歩1分のところにうどん屋と居酒屋の間のような割と入りやすい雰囲気の店ができたので取りあえず毎日のように入り浸ってみた。
 mixiでオフ会をやろうと声をかけ、見知らぬ人たちとコスプレ喫茶に行ってみた。
 クーリエジャポンを買って世界情勢と異国の文化に思いをはせてみた。新現実を買って日本の若者社会についてちょっと考えてみた。
 
 物語にほとんど興味がなく、漫画もアニメも小説も読まないし年も10以上離れているおじさんやおばさんと話すのは意外と面白かった。 
 初めて出会い、生まれも育ちもまったく違うのに、mixiで偶然であった同年代たちは俺と同じようなことで悩み、でもそれぞれがやっぱり少しづつ違っていた。
 ニュースや評論に目を通すと世界は俺が思っている以上にドラマチックでエンターテイメント性にあふれていたし、俺の日常とそれなりにつながっていた。

 そして、改めて俺は物語に帰ってきた。
 ライトノベルの多くは非日常を描いてはいるものの、そこに描かれるものは作者の眼で見たものは繁栄されず、ライトノベル的な視界と世界観で作られたコピーペーストが多数を占めていた。
 以前はほとんど興味を示さなかった日常をつづっただけの物語の中にも、作者の目によって捕らえられた、俺の目に映るものとは違う世界が感じられるようになった。
 ライトノベルはもはや僕のための物語ではなくなっていた。そこには一時的な快楽しか存在しなかった。

 サブカルチャーは圧倒的に乏しい俺の知識とセンスでは形を追うばかりになり、その本質には届くことがないと改めて触れてみて気がついてしまった。
 僕が届く非日常。それを探さなくてはならない。



 しかし、そんな俺に久々に訪れた衝撃。ここで前回の話に戻る。
 「絵を描くだけで人はゆがんでいくものだ」
 
 絵をかける人だけに見える世界。絵をかける人にだけ伝えられるもの。
 俺は言葉しか持たなかった。何かに触れたときは常にそれを言葉に置き換える。劣化し単純化し記号化すると分かっていてもそれだけは常に行ってしまう。人にものを伝えるときは、言葉に置き換えることによって生じる誤差を面白みに代えてアレンジして話すことが楽しかった。そんな俺には何かとてつもないことを聞いてしまった気がしたのだ。

 ヴァイオリンを5歳から始めた人に尋ねてみた。「風景を見たときに浮かんでくるのは言葉ですか?」答えは違った。風景をみるとそのイメージと重なる音楽をまず探すと。さらに、相手のことを知るときに話すよりも、その人の演奏を聴いたほうが本当の性格を捕らえられると。

 アウトプットとインプットは表裏一体。インプットしたものを言葉に置き換えている俺は、おそらく目に写るもの感じるものも言葉による影響を受け言葉に縛られている。逆にその人はきっと音楽に感覚を影響されているのではないだろうか。

 その人にこの考え方を伝えたところ、別に普通の人とそんなに変わらないと思いますよ。ちょっと人と違う表現手段を持っているだけです。という答えが返ってきてしまった。
 しかし、別の絵を描く友人にこの話をすると「もともと客観世界なんてものは存在しない。個々人はきっと想像以上にまったく別々の世界を見ているし感じている」とまた違った方向に話を広げてくれた。

 思考がうまくまとまらない日々をすごし、悶々としてきた俺は当てのない散歩をすることにした。i-podで音楽を聴きながらふらふらと見知らぬ町を歩く。するとそのときかかっている音楽によって目に留まるものが違って見えることに気がついた。ちょっとぼろいアパートはBGMや見る角度によって、趣のあるどこか懐かしい景色にも、人の気配がしない恐ろしい空間にも、長い時間の中で忘れられてしまった寂しい建物にも見えた。
 いつもあせりと憂鬱な気持ちを引きずって自転車で走っていた前のバイト先への通り道を歩いてみた。そこは穏やかな気持ちで、日差しの下、改めてのんびりと歩くととても気持ちよかった。
 
 そして、気がついた。
 これは俺の主観世界なんだ。俺が心や経験や知識のフィルターを通して見たひとつの世界なんだと。
 自らの見る世界、客観世界、多数と共有している世界と違う世界を描くのが物語なのならば
 俺の目に写るもの
 感情、風景、言葉、体験、それらすべてを俺は物語と呼ぼう。ならば僕は日常を物語と呼ぼう。