知りもしない

枠の中に綺麗に収まっているのに、何故かすごく自由でいつも楽しそうだった。
 俺が見てた姉は、いつも不機嫌そうな顔。
 でも気に入らないことなんてほんとはなかったんだと思う。

 言葉がおかしくなるけど。この世界で生きるために生まれたんじゃないかと思うくらい、世界と相性が良かったんだと思う。どうすれば楽しいのかどう生きれば楽しいのか、きっと本能的に気がついていたんだ。
    

 でも、要領はけして良くはなかった。不器用だったし、成績も悪くはなかったけど良くもなかった。
 吹奏楽部でトランペットを吹いていたけど、お世辞にもうまいとはいえなかった。走るのだけは何故か速くて運動会で毎年活躍してたけど走ることしかできないので球技はてんで駄目だった。

 休日はほとんど毎回友達と遊んでいた。友達と遊んで帰ってきた日はいつも上機嫌だった。そして、 何故かその後は必ず本を読むかトランペットの練習をしていた。
 
 
 県立の高校に進み、吹奏楽部をそのまま続け、さらにカメラも始めだした。人物を撮ることはほとんどなかった。いつも風景ばかりをあきもせずに撮っていた。
 でも、俺が姉の写真で惹かれるのはたいてい100枚に一枚くらいの頻度で出てくる人物を撮ったものだった。写真に出てくる女の子達は、何かものすごく楽しそうですごくうらやましい気持ちになったものだ。
 頭のできも、所属していた部活の成績も俺のほうが良かった。でも、近所でも、同じだった中学でも姉のほうが有名だった。
 美人だったわけでも、何か特技があったわけでもないのに、姉は慕われ、憧れられていた。
 敵はきっとほとんどいなかったと思う。嫉妬しようにも妬もうにも、姉は何一つ特別なものを持っていなかったのだから。

 その姉が、俺が受験を控えた高校三年生だった2年前の夏。唐突に大学を辞めた。
 親に一言も相談せず、唐突に。
 しかし、不思議なことに、俺も、俺達の両親も誰一人として驚きはしたが動揺はしなかった。

 学校を辞めた姉は、カメラもトランペットもやめて絵を描き始めた。これもまた人物ではなく風景画だった。
 毎日外に出ては絵を描いて帰ってくる。
 誰かと遊んでいる様子もない。母親の家事を手伝い、飼っている犬の散歩に行き。そして、スケッチブックを持って町へ出る。だいたい日が落ちてしばらくすると帰ってくる。
 そんな生活をずっと繰り返し続けていた。

 俺が京都の大学に合格し、長い受験勉強生活から解放され友人達と旅行に行ったり、誰かの家に泊まり朝まで酒を飲んで馬鹿みたいに騒いでいた頃。姉がいつもどおり家を出てそのまま帰ってこなかった。
 
 俺は「まぁ。そんなものか」とよく分からない納得の仕方をして特に心配もしなかった。
 でも、夜、姉の部屋の前を通ったとき急に不安になった。もしかしたらこのまま二度と姉には会えないのではないだろうか?
 
 そう考え出すと止まらなかった。家を飛び出し、姉を探した。
 見慣れた街を必死で走り回った。何故かこの街のどこかに、まだ姉はいると無意識に信じていた
気がつくと時間は午後10時。人影はまばらだが、深夜にはまだまだ時間がある。ならまだ、この街のどこかにいるはずだと。

 呼吸が乱れて走り続けることが困難になってきた。姉と俺の母校である中学校への通学路を息を整えながら歩く。するとどこからともなくトランペットの音が聞こえてきた。

 学校裏の公園、そこに姉はいた。思いっきり、力の限りを込めてトランペットを吹き鳴らしていた。背中を曲げ、顔を下に向け頬を膨らませて、持てる力のすべてを持って、肺から、お腹から、全身からマウスピースに空気を送り込んでいた。
 
 もはや音楽ではない。ふぁぁあああああああ。と音にもなっていないような音が夜の公園に響き渡る。

 歩み寄ると姉と目が合う。俺から視線を外さないままトランペットを下げる。必死に走り続けた俺、力の限りトランペットを吹き続けた姉。お互いの乱れた呼吸の音だけが聞こえる。

 「わたしはさぁーー」
 急に大声で姉は舞台役者のように叫び始めた。
 「すごく楽しかったし、これからも楽しいし、だからいまも楽しいんだよきっと」

 疑問系なのか、ただの宣言なのかはわからない。ただ俺は返す言葉を持っていなかった。
 また、少し乱れた息を整え、姉は続ける。今度は普通の声音と、普通の音量で。
 「大学はすごく楽しいところだよ。」

 いったいどういう思いで、どういう意図で発せられた言葉なのかまた俺には分からなかった。
 無言の時間が少し続いた後で姉はやさしく、すこし照れくさそうに笑った。

 「家に、帰ろうか」
 
 中学生の頃、毎日通った通学路を姉と二人話しながら歩いた。
 俺が友達と行った旅行先であったこと、大学に入ったらどの科目を取ろうと思っているか、どんなサークルに興味があるのか。
 姉の友達の話。大学生だった頃の思い出、実は一年前に写真を賞に応募して佳作に選ばれていたけどなんとなく恥ずかしくて隠していたこと。

 代わり映えのない日常と他愛のない話。でも楽しかった。姉と話すのはこんなにも楽しいことだったのか。その時間はあっという間で、のんびり歩いて少し遠回りはしたけど20分ほどだったと思う。

 なんとなく親に気がつかれたくなくてそっと玄関を開け家に入る。
 姉と自分の分。2杯のコーヒーを入れる。
 まだまだ姉と話したい。そう思ったし、そのつもりだったけど町中を走り回って思っていたよりも疲れていたらしい。
 「もう遅いし寝ようか?」
 その言葉に素直に俺はうなずき、俺達はそれぞれの部屋で眠りについた。

 その2日後。俺は大学のある京都へと旅立った。
 家族との別れは地元の駅だった。
 「じゃあ行ってくる」
 京都での新しい日々への期待から出た俺の表情はきっと笑顔だったと思う。
 「うん。いってらっしゃい」
 姉は少し寂しそうに、そんな俺を笑顔で見送ってくれた。

 あれから一年半。たまに姉のことを考えてみる。
 姉はいったいなぜ学校を辞めたのだろうか?友達とも遊ばなくなったことを考えると、人間関係で何かあったのだろうか?でも、大学生活の話をしているときも友達の話をしている時も、ずっと姉は楽しそうだった。

 考えてもしょうがないし、その必要もきっとない。いつもすぐにその結論に行き着く。
 姉のことは多分、俺は死ぬまできっと理解できない。分かるのは本当に少しだけ。でも、それで何か困るわけでもない。
 俺が大学を卒業するとき、姉はまだあの家にいるだろうか?
 やっぱりそれも分からない。

 過去のことも、いまのことも、これからのことも、姉のことを俺は何一つ知らない。