片山憲太郎の描く記号の向こう側にある関係

「紅」で一番好きなキャラは?と聞かれたら僕は迷わず銀子だと応える。
幼なじみというありがちな設定ではあるが、銀子は絶妙なバランスで作られたキャラクターである。真九郎が他の異性と親しくすると不機嫌になるし、何かと彼の行動に口出しする彼女であるが、真九郎に対して恋愛感情を持っているか?と聞かれたらそれは本当に微々たるもので、ほとんど無いと言っていいだろう。

彼女は真九郎を本気で心配しているし、親愛の情がある。しかし、それは家族的な絆であり恋愛感情とは異なるものである。では何故「いやらしぃ」と言うのか?それは、小さい頃から性別の差を意識することなく無邪気に親しくしていたものが異性と仲良くしているのを見た時の銀子の複雑な感情の表れそのものだと思う。
しかし、これから銀子が真九郎に恋愛感情を抱くことが絶対無いというわけではない。二人の関係は恋愛に発展する余地が十二分にある。それが二人の関係の魅力的な部分である。
二人の距離感も絶妙で、銀子は真九郎といつも一緒にいたいと思っているわけではない。でも、一緒にいたい時もある。
真九郎は無意識にタイミングを計り、銀子のところに会いに行っているように僕には思える。
異性だけど恋愛とは違う、家族のような友人のような関係。それをおそらくお互いに心地よく思っているのだろう。
ちなみに銀子は真九郎に好意を持っているとか言っているwikipediaは読み込みが甘いのである。
絶妙な立ち位置と、そして、これからどう変化するか分からない真九郎への感情、それらによって銀子はもの可愛く思えるのだ。


このように紅は、キャラクター一つ取っても奇抜というわけではないが、よく作り込まれた非情に良くできた作品だと思う。設定もストーリーもキャラクターも記号化しているようでいて、実はその向こう側が存在する。一つづつ言葉を重ねて丁寧に描かれていて、読み込むことにより多くのことが見えてくる。名作というよりも良作という言葉がぴったりとはまる作品である。
そして、中でも一番注目すべきは、登場人物達の繋がりの形である。
五月雨荘の仲間達は血の繋がらない家族のようでいて、それでも、互いに深く事情を知らないことから他人のよう似も思える。実際彼らがストーリーのメインに絡んでくることはない。しかし、みなが凄く心地良い空間を共有していることは確かだ。
これは僕の勝手な憶測になるが、あのアパートを出たら彼等はお互いに二度と会うことはなくなるような気がする。五月雨荘の仲間、同じあの空間で生活を送っているということが彼らの繋がりの中で非情に重要なような気がするからである。

紫と真九郎の関係などあからさまに意味不明である。兄妹なのか、友達なのか、親子なのか、それとも恋人同士なのか、戦友と言われても違和感がないように思える。
お互いにお互いを大切に思っていることは確かであるが、確実に互いの感情はすれ違いと誤解が生じている。それでも、それが暖かく思えてしまうのだから不思議である。
彼等の関係を言葉に置き換えることはまったくもって無意味である。だいたい、文章で簡単に説明できないから物語を通して描いているのである。
そう、僕が思うに片山憲太郎が描きたいのは人と人の繋がりではないのであろうか?


デビュー作である「電波的な彼女」では主人公にいきなり忠誠を誓うヒロインが出てくる。あれも、いま思えば不可思議かつ心地良い男女関係である。へんてこ珍妙、だけど暖かい関係。それを片山憲太郎は描いている。
そして、両作品共通する腐敗した社会像。家族の崩壊、教育機関の崩壊、どこに矛先が向かうか分からない悪意と犯罪。
世界の幸せの総量が決まっていて誰かを不幸にすれば自分が幸せになれるという幸福ゲームが流行りそれに主人公が巻き込まれるというエピソードも方向性は違うが人と人の繋がりを描いている。
彼が両作品共通して描くのは腐敗した社会像。家族の崩壊、教育機関の崩壊、無作為に向けられる悪意と暴力。
そして、そんな世界を生き抜くために彼が提示する奇妙な縁、暖かくも不思議な繋がり。
彼は物語を通して、それらを丁寧に丹念に描いている。そして、おそらくこれからも描いていくのであろう。
単なる美少女小説と切り捨てるのではなく、そういった見方をしてみても面白いのではないだろか?

紅 (紅シリーズ) (スーパーダッシュ文庫)

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電波的な彼女 (スーパーダッシュ文庫)

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