記号を使ったコミュニケーション

mixiニコニコ動画twitterを徘徊してみて思ったことがある。それは、人間というものはタグで繋がっている部分が多いのではないだろうか?ということ。

mixiでプロフィールを見ると、趣味や、好きな映画などが列挙され、さらに、入っているコミュニティーを見ることが出来る。それで趣味が合いそうなのか、乗りは近いのか、など様々なことを考え、仲良くなれそうならコメントを残したりメッセージを送ったりしてマイミク申請をする。
つまり、自分と共通のタグを探し、そして、そこから繋がっていこうということである。

ニコニコ動画でタグを手がかりにそこから自分が興味を惹かれるコンテンツを探し当てていくように、mixiではコンテンツがユーザーそのものだから、タグを見て興味を惹かれる人を見つけるということになる。
そして、その共通の部分をとっかかりに仲良くなっていく。

ネットの外側でも同じようなことが起こる。
始めて会った人に趣味や出身地、出身大学を尋ね、共通するものがあればそこから繋がっていく。
社会人になれば、様々な人脈を作るために、ゴルフを始めたり、カラオケで誰にでも分かる曲を歌うために、普段は聞かないジャンルの音楽を聴き始めたりと、タグを意図的に増やす人も出てくるのかもしれない。

しかし、タグで繋がっているということは、そのタグがどちらかから消えた場合、繋がりが希薄になる可能性が出てくる。
アニメ友達がアニメを見なくなった。野球ファンでよく野球を一緒に見に行っていたのに、片一方が野球に飽きて観戦に行かなくなった。バンド仲間とバンドを解散してから会わなくなった。などなど
組織的なタグでは、単純に職場が変わった、部活やサークルなどをやめたなどである。
結局、繋がりがタグでしかない場合は、環境や、趣味、思考の変化で繋がりは希薄なものとなってしまう。

だから理由無き繋がりが一番長く楽しくやっていけるのではないかと思うのだ。
理由無き繋がりってなんだって感じで僕自身うまく言えないのだけど、「こいつとは趣味も合わないし、全然考え方も理解できないのになんかずっと遊んでるなぁ」みたいな感じである。抽象化されて表面化してないだけで繋がりに理由はあるのかもしれないけど、結局の所明確すぎるよりは、お互いの変化に左右されないだろうなと思ったりする。

タグはとっかかり程度にして、先入観はあまり持たないように意識し、互いの関係を限定化することを避けた方が面白いと思う。さらに、相手をタグ付けしすぎて、本質を見失うことがないようにしたい。
記号から入ったとしても、その向こう側を覗くようにして、さらに、相手がどういう人か分からなくてもどんどん絡んでいって、仲良くなってから相手を知っていくっていうのも有りだと思うのだ。

だから、mixiで気が合いそうな人のみマイミク承認しますとか、過剰に自分を記号化してプロフィール書き込んだりとか、そういうのは自分のキャラクターも限定しちゃうし、関係も限定化されるというマイナス要素も孕んでいる。
人付き合いは、アバウトに行きましょう。