知らないというのは恥ずかしい

ここ最近は幼い頃からの友人と遊ぶ機会があった。
古くからの友人と共有する空間というものは無条件で落ち着く。互いの近況から映画や小説の話。久しぶりにあっても、久しぶりに会うからこそ話題は尽きない。


その中で印象に残る議題があった。それは、「昭和」そして、「第二次世界大戦」というものを僕達若者はどう消化するべきなのか?ということ。
これは前から興味があったことで、前々からしっかりと考えなければと思っていたのだが、先日会った友人も同じようなことを考えている部分があったらしく少し互いの認識を語り合った。


非情にデリケートな問題であり、僕自身どう語って良いのか分からないのだが、僕達は歴史の中で生きている。過去があって現在がある。僕もそうだし、僕の暮らしている日本という国家もそうである。まず、それだけは確かなことだと思う。
自分が何でここにいるのか、自分の回りはどうしてこうなっているのか、それを知らずに生きるというのは非情に不自然なことだと思うのだ。


友人曰く「第二次世界大戦皇民化教育が大日本帝国がどのようなものだったのか、ただただ、無意識に日常を送っていては知る機会はない。語ることを要求しなければ、そのことを知るものは語ってくれないし、自分で調べなければ確かなことは見えてこない。それに対して無関心であることは、視野を狭くしてしまう。もったいないことだ」とのこと。

第二次世界大戦終結の時の陸軍大臣は誰?内閣総理大臣は誰?満州事変の時の関東軍の参謀長は誰?
それにすぐ答えられる若者が何人いるだろうか?
しかし、この程度のことは調べればすぐに出てくる。触れられないものではない。
まずは触れることが大切なのだ。


「僕の見た「大日本帝国」―教わらなかった歴史と出会う旅 」という当時日本の占領下にあった地域を著者が巡るノンフィクションの本がある。
時代の大きな流れ、列強のアジアへの干渉。そして、アジアのリーダーとして、列強に並ぼうとした大日本帝国。その中で、必死に時代を生き抜いた人々。
彼等の思い、考えは複雑で日本が正しいとか間違っていたなどと言った単純な言葉で置き換えることが出来るものではなかった。そして、何も知らない自分に対して申し訳ない気持ちになった。
彼等にもし大日本帝国の行ってきたことについて尋ねられた時、僕はきっと何も答えられない。ただひと言「僕は何も知りません」と情けないひと言を吐くしかない。
どんな答えでもいい。でも知らないから何も言えないのではあまりに情けないと思うのだ。


僕はこれから本を読もうと思う。人に話を聞こうと思う。そのことを同じ若者達と語り合い、意見や情報を交換したいと思う。
そして、年配の方々。話を聞かせてください。僕は知りたいです。考えたいです。
それに対して、立派な答えを出せるか分かりませんが「知らないです」で終わるような人間には僕はなりたくないです。