当たり前だけどニュース観ないとだめだ。

 僕は基本的にTVを観ないし新聞も読まない。ようするにNEWSを全くチェックしない人間だった。バイトして暮らすにはそれでもほとんど困ることはなかったので危機感もなく、周りから指摘されることもなかった。
 しかし、ある日突然ふと政治経済、社会の話が自分の生活と関わっているのだと思うようになった。つまり以前はブラウン管に映る映像は自分とは関わりのないものだと思っていたのだ。
 政治家の発言はある意味で僕の暮らしや権利について言及しているものであり、経済の問題は僕の将来の職や資産に密接に関わるものなのである。ちょっとずれているとは思うが自分の属する組織で何が起こっていても無関心、自分の給与明細も見ない、近くで通り魔が暴れていることも知らない。そんな状態と言っても過言ではないだろう。
 

 さすがにこれはまずいかもしれない。しかし、奇妙なことに「かもしれない」程度なのである。確かに、以前よりはNEWSに興味が出てきた。しかし、どの記事を読んでも生々しさを感じることが出来ない。ある意味歴史の授業を受けているような感覚になってしまっている。つまり、現実感は希薄だけど実際にあったことだとは頭で理解しているイメージ。情報と感覚に齟齬が生じている状態。
 これは「空の境界」で言う所の俯瞰風景と日常風景の差異から来る違和感による混乱症状みたいなものかもしれない。
 僕が許容出来る世界というのはせいぜい半径10km位で、それ以上の高見からの視界を見せられてもブラウン管やPCのモニターから出てくることはなく、結局実感出来るのは僕の狭い日常の出来事だけなのだ。しかし、目に写らない、見えない何かの流れに押し流されている感覚だけは何処かで感じ取っているからブギーポップの描く世界観に共感したりする。


 そして、危機感が湧かない変わりに悔しいという感情が生まれた。なんで僕はここどまりなんだ?自分の視野の狭さに対するいらだち。
 もっと広い世界を実感したい。関わりたい。そんな風に思えてきたので勉強したくなってきた。「社会に対する問いかけが物語の目的だ。それは作り手も受け手にとってもそうだ」という前のバイト先の先輩の言葉を思い出した。
 思えば20歳を過ぎてから、小さな日常だけを描いた作品ばかり読んでいた気がする。結局それだけでは満たされそうにもないのでそっちの方でもシフトして行きたい。
 

 しかし、「社会的な立ち位置がそこでは実感出来るわけないよ。」と言われたら何も言い返せないので、結局は僕自身が社会の何処かに飛び込んでいくしかないという答えが見え隠れしているのも事実。こうやって今更僕はオトナになろうともがき始めたのだ。