微妙に始まったのかもしれない

空の境界を読み終わったら感想を書こう。そう思っていたらなかなか読み終わらずにこんなに更新が途絶えてしまいました。読み終わり次第しっかりとした感想を書くつもりですが取りあえず今日は別のことを書きます。
派遣のバイトに登録しました。京都に行ってクラブイベントを初体験してきました。というわけでちょっと何かが始まったような気がしているのですが劇的な変化が起こるわけでもなく相変わらずな日々を送っております。

10代の人々と接して

インターネットのコミュニケーションの良さとして、年齢の差がある人とも対等に気楽に話せると言うことがある。
世代が異なる人達の見てきた世界は僕の視界とは全く違っていて話を聞くだけでも面白い。
そのなかで思ったのは、なんかいまの十代ってすげぇなぁということ。
大人になろうと奮闘していたり、しっかりと自分のルールを決めていて絶対破らない人とか、誰でも分け隔て無く受け入れるけど相手と違う意見を持っている時はしっかりと言い切る。そんな、十代の人達を見ていると自分の十代の頃と比べて凄く恥ずかしくなってくる。
実際、これらのことが24才になった僕に出来るかと言われれば自信が持てない。
年配の方と接して学ぶことも多いし、同年代のやつと互いに励まし合ったり刺激を与えあったりするのはもちろんだが、むしろ年下から学ぶことの方が最近は多いかもしれない。


先日、昭和と戦争についてちょっとテンション高めのエントリーを書いたのも実は18才の受験生のブログを読んだことに影響を受けている。
僕が感銘を受けたのは東浩紀大塚英志のリアルのゆくえについて論じたこのエントリー
http://d.hatena.ne.jp/schizo-08_08/20080824/1219586171
以下一部引用

この本では、どちらも僕の尊敬する、大塚英志さんと東浩紀さんの対談が掲載されています。詳しいことは省きますが(後で、詳しい書評を書きたいですね)、この本の中で、僕はこの二人に失望してしまいました。要するに、この書物は「変えられないと思いつつも、旧態依然とした理想を説く男」と「変えられないと、あきらめつつ、具体性のない実践を説く男」の対談に読めてしまったのです。僕は「現状理解は東派、実践としては大塚派」に近い立場から、、「これだったら、自分が直接本を書いて、世の人に訴えたい」と思うに至ったのです。

僕の場合は、バックボーンが仏教哲学ですから、それを用いて、世の中に啓蒙したと思っています。

僕は論壇や批評について詳しくないので、彼の言っていることに肯定も否定も出来ませんが、最後の世の中に対して何かを働きかけたいという強い意志に僕は心を打たれました。
この年にして世の中に対して自分のスタイルを定め、そして、具体的な方向について示せるというのは本当に素晴らしいことだと思う。
そのことを決意し、誰もが閲覧出来るブログという場で宣言するその姿勢には、目の前にあるものさえ満足に処理出来ない僕からしてみれば尊敬の念を抱かざるを得ない。

年上として、彼に失望されないような大人に僕はなりたい。

実感の湧かない24才

先日とある人に「お前は大人だからな」と言われ愕然としました。
これは成熟しているなどの意味の褒め言葉でも何でもなく、24才はもう常識的に大人だろう、むしろ大人になっていなければまずいだろうという意味で言われたのではないかと思います。
大人になっていなければいけない24才の僕が何をしているかというと、現実から完全に逃げるでもなく、正面から向き合うでもなく、半身になって現実と中途半端に向かい合っているというなんとも言えない状況な分けです。
何か行動を起こそうにも足が震えて尻込みしてしまう自分には嫌気がさしますが、どんなに自分を罵倒してみても少しづつしか動き出すことが出来ないので、あきらめて亀のような鈍足の自分と付き合う方法を模索しようかと思います。
取りあえずなんか少しづつでも良いから前向いて進めよと自分にメッセージを送って生きていきます。

知らないというのは恥ずかしい

ここ最近は幼い頃からの友人と遊ぶ機会があった。
古くからの友人と共有する空間というものは無条件で落ち着く。互いの近況から映画や小説の話。久しぶりにあっても、久しぶりに会うからこそ話題は尽きない。


その中で印象に残る議題があった。それは、「昭和」そして、「第二次世界大戦」というものを僕達若者はどう消化するべきなのか?ということ。
これは前から興味があったことで、前々からしっかりと考えなければと思っていたのだが、先日会った友人も同じようなことを考えている部分があったらしく少し互いの認識を語り合った。


非情にデリケートな問題であり、僕自身どう語って良いのか分からないのだが、僕達は歴史の中で生きている。過去があって現在がある。僕もそうだし、僕の暮らしている日本という国家もそうである。まず、それだけは確かなことだと思う。
自分が何でここにいるのか、自分の回りはどうしてこうなっているのか、それを知らずに生きるというのは非情に不自然なことだと思うのだ。


友人曰く「第二次世界大戦皇民化教育が大日本帝国がどのようなものだったのか、ただただ、無意識に日常を送っていては知る機会はない。語ることを要求しなければ、そのことを知るものは語ってくれないし、自分で調べなければ確かなことは見えてこない。それに対して無関心であることは、視野を狭くしてしまう。もったいないことだ」とのこと。

第二次世界大戦終結の時の陸軍大臣は誰?内閣総理大臣は誰?満州事変の時の関東軍の参謀長は誰?
それにすぐ答えられる若者が何人いるだろうか?
しかし、この程度のことは調べればすぐに出てくる。触れられないものではない。
まずは触れることが大切なのだ。


「僕の見た「大日本帝国」―教わらなかった歴史と出会う旅 」という当時日本の占領下にあった地域を著者が巡るノンフィクションの本がある。
時代の大きな流れ、列強のアジアへの干渉。そして、アジアのリーダーとして、列強に並ぼうとした大日本帝国。その中で、必死に時代を生き抜いた人々。
彼等の思い、考えは複雑で日本が正しいとか間違っていたなどと言った単純な言葉で置き換えることが出来るものではなかった。そして、何も知らない自分に対して申し訳ない気持ちになった。
彼等にもし大日本帝国の行ってきたことについて尋ねられた時、僕はきっと何も答えられない。ただひと言「僕は何も知りません」と情けないひと言を吐くしかない。
どんな答えでもいい。でも知らないから何も言えないのではあまりに情けないと思うのだ。


僕はこれから本を読もうと思う。人に話を聞こうと思う。そのことを同じ若者達と語り合い、意見や情報を交換したいと思う。
そして、年配の方々。話を聞かせてください。僕は知りたいです。考えたいです。
それに対して、立派な答えを出せるか分かりませんが「知らないです」で終わるような人間には僕はなりたくないです。

夏が終わりそう

お久しぶりです。
なんとなくまた更新途絶えてましたね。
ちょっと、一つ前のエントリーを読み返してみたのですが文章めちゃくちゃですね。普通に読みにくいし、伝わりにくい印象を我ながら受けました。でもこれも戒め。取りあえずはこのままで置いておきます。

片山憲太郎の描く記号の向こう側にある関係

「紅」で一番好きなキャラは?と聞かれたら僕は迷わず銀子だと応える。
幼なじみというありがちな設定ではあるが、銀子は絶妙なバランスで作られたキャラクターである。真九郎が他の異性と親しくすると不機嫌になるし、何かと彼の行動に口出しする彼女であるが、真九郎に対して恋愛感情を持っているか?と聞かれたらそれは本当に微々たるもので、ほとんど無いと言っていいだろう。

彼女は真九郎を本気で心配しているし、親愛の情がある。しかし、それは家族的な絆であり恋愛感情とは異なるものである。では何故「いやらしぃ」と言うのか?それは、小さい頃から性別の差を意識することなく無邪気に親しくしていたものが異性と仲良くしているのを見た時の銀子の複雑な感情の表れそのものだと思う。
しかし、これから銀子が真九郎に恋愛感情を抱くことが絶対無いというわけではない。二人の関係は恋愛に発展する余地が十二分にある。それが二人の関係の魅力的な部分である。
二人の距離感も絶妙で、銀子は真九郎といつも一緒にいたいと思っているわけではない。でも、一緒にいたい時もある。
真九郎は無意識にタイミングを計り、銀子のところに会いに行っているように僕には思える。
異性だけど恋愛とは違う、家族のような友人のような関係。それをおそらくお互いに心地よく思っているのだろう。
ちなみに銀子は真九郎に好意を持っているとか言っているwikipediaは読み込みが甘いのである。
絶妙な立ち位置と、そして、これからどう変化するか分からない真九郎への感情、それらによって銀子はもの可愛く思えるのだ。


このように紅は、キャラクター一つ取っても奇抜というわけではないが、よく作り込まれた非情に良くできた作品だと思う。設定もストーリーもキャラクターも記号化しているようでいて、実はその向こう側が存在する。一つづつ言葉を重ねて丁寧に描かれていて、読み込むことにより多くのことが見えてくる。名作というよりも良作という言葉がぴったりとはまる作品である。
そして、中でも一番注目すべきは、登場人物達の繋がりの形である。
五月雨荘の仲間達は血の繋がらない家族のようでいて、それでも、互いに深く事情を知らないことから他人のよう似も思える。実際彼らがストーリーのメインに絡んでくることはない。しかし、みなが凄く心地良い空間を共有していることは確かだ。
これは僕の勝手な憶測になるが、あのアパートを出たら彼等はお互いに二度と会うことはなくなるような気がする。五月雨荘の仲間、同じあの空間で生活を送っているということが彼らの繋がりの中で非情に重要なような気がするからである。

紫と真九郎の関係などあからさまに意味不明である。兄妹なのか、友達なのか、親子なのか、それとも恋人同士なのか、戦友と言われても違和感がないように思える。
お互いにお互いを大切に思っていることは確かであるが、確実に互いの感情はすれ違いと誤解が生じている。それでも、それが暖かく思えてしまうのだから不思議である。
彼等の関係を言葉に置き換えることはまったくもって無意味である。だいたい、文章で簡単に説明できないから物語を通して描いているのである。
そう、僕が思うに片山憲太郎が描きたいのは人と人の繋がりではないのであろうか?


デビュー作である「電波的な彼女」では主人公にいきなり忠誠を誓うヒロインが出てくる。あれも、いま思えば不可思議かつ心地良い男女関係である。へんてこ珍妙、だけど暖かい関係。それを片山憲太郎は描いている。
そして、両作品共通する腐敗した社会像。家族の崩壊、教育機関の崩壊、どこに矛先が向かうか分からない悪意と犯罪。
世界の幸せの総量が決まっていて誰かを不幸にすれば自分が幸せになれるという幸福ゲームが流行りそれに主人公が巻き込まれるというエピソードも方向性は違うが人と人の繋がりを描いている。
彼が両作品共通して描くのは腐敗した社会像。家族の崩壊、教育機関の崩壊、無作為に向けられる悪意と暴力。
そして、そんな世界を生き抜くために彼が提示する奇妙な縁、暖かくも不思議な繋がり。
彼は物語を通して、それらを丁寧に丹念に描いている。そして、おそらくこれからも描いていくのであろう。
単なる美少女小説と切り捨てるのではなく、そういった見方をしてみても面白いのではないだろか?

紅 (紅シリーズ) (スーパーダッシュ文庫)

紅 (紅シリーズ) (スーパーダッシュ文庫)

電波的な彼女 (スーパーダッシュ文庫)

電波的な彼女 (スーパーダッシュ文庫)

ざまそにの帰りの電車で片山憲太郎について考えてみた。

ざまそに行ってきました。色々の人と会えて楽しかったです。
最近の僕は気力、体力とも下降気味なので、前に出ても面白いことが言えないだろうという確信を持っていたので後ろの方でしっぽりとやらせてもらいました。
一番良かったのは、マクロスFの曲が大音量で聴けたことですね。
会場のBGMで流れていたのですが、後ろの方でykicと煙草を吹かしながらひたすら耳を傾けておりました。
しかし、ykicがarigaminのちん毛を引き抜いたのには驚きました。何故か僕にそれを進呈してくれたので、主催者の虎吉さんに渡そうと思ったのですが、汚い、いらないと断られたので舞台の上にそっと置いておきました。
帰りの電車では片山憲太郎のことをずっと考えていました。ということで少し語らせて貰います。